 |
二人の接近が世界を変える

そのクローゼットには、鏡がなかった。
だから、扉を開けても、自分の姿を見ることはできない。
代わりに、そこには見たことのない衣装が並んでいた。
深い青のガウン。 銀糸で星を刺繍した帽子。 誰かの舞台で使われたらしい、少し古びた白い手袋。
そして、一番奥には、二人分の衣装が、まるで誰かを待っているように吊るされていた。
彼がガウンに手を伸ばしたとき、背後から声がした。 「それ、私のかもしれない」
振り返ると、彼女が立っていた。
いつからそこにいたのか分からない。
彼女はクローゼットの中を覗き込み、しばらく黙っていた。
「じゃあ、これは僕の?」
彼が隣の帽子を持ち上げる。
「たぶん」
二人は笑った。
それだけのことだった。
けれど、その瞬間だった。 クローゼットの奥で、小さなベルが鳴った。 チリン。
すると、部屋の壁がゆっくり消えていった。
壁の向こうには、知らない街があった。
夕暮れの石畳。 見たことのない駅。 空には二つの月。 通りを歩く人々は、誰もが色とりどりの衣装を身につけている。
彼女が彼を見る。
「世界が変わったね」
「うん」
「どうして?」
彼は答えなかった。 ただ、彼女の手を取った。
その手が触れた途端、遠くの建物に灯りがともった。
一つ。 また一つ。
まるで二人が近づくことを合図に、眠っていた街が目を覚ましていくようだった。
二人が一歩進む。
すると、石畳に花が咲いた。
もう一歩。
すると、空から細かな雪が降ってきた。
彼女が笑う。
彼も笑った。
そのたびに、街の色が変わった。
赤い屋根が青くなり、 青い空が金色になり、 知らない人々が立ち止まって、二人のほうを振り返る。
まるで世界中の観客が、ずっと二人の登場を待っていたかのようだった。
やがて、彼女が彼の肩にそっと寄り添った。
その瞬間、最後の建物が消えた。
そこには、何もなかった。
ただ、広い舞台があった。
舞台の中央には、最初に開けたクローゼットだけが置かれている。
彼女が言った。 「帰る?」
彼は首を横に振った。
「まだ、幕は下りていない」
彼女は少し考えてから、彼の手を握り直した。 二人で舞台の中央へ歩いていく。 すると、クローゼットの扉がひとりでに閉まった。
その中には、もう衣装も帽子もなかった。
代わりに、小さな紙片が一枚だけ残されていた。
こには、誰が書いたのか分からない文字で、こう記されていた。
――二人が近づけば、世界は衣替えをする。
そして、客席のどこかで、 開幕のベルが、 もう一度、 鳴った。
|
|